2018/09/26 13:38

岡山県外の方が「児島」を耳にすると、島を想像するそうです。
児島は今は島ではなく瀬戸大橋もある四国への玄関口となっていますが、
むかしむかしは、かなりの遠浅の海でした。
児島、水島、玉島、乙島、柏島、連島・・・
かつてのなごりが現在の地名になっているようです。

今から400年ほど前、まだ児島は海でした。
江戸時代に入り干拓が進み本土と陸続きになりましたが、
土は塩分を含み米作りには向いていませんでした。
そこで始まったのが「綿花栽培」です。綿花は塩分に強く、
人口も多かった児島地区では綿を育て、綿を紡いで、
綿を織り、繊維産業が始まったのです。

児島にある由加山 由加神社は四国金比羅山との厄除け両参りとして有名ですが、
当時児島地区で作っていた「真田紐」は参拝者のお土産として大人気でした。
明治時代には産業が発展し、倉敷は製糸から紡績のまちへと変化します。
この頃から児島では「足袋」の生産が始まりました。織物を型で抜いて、
動力ミシンで縫い合わせる。個人オーダーから大量生産の時代に入ったのです。

大正時代に入ると和装から洋装へと人々の服装が変わり足袋作りは減少。
そして制服、作業服を中心とした被服縫製に変わり、昭和へと移ります。
昭和に入ると倉敷・児島で培ってきた紡績〜織物〜染色〜縫製の地域一貫生産体制ができ、
全国の学生服、セーラー服の大半を倉敷・児島地区で作るようになりました。
着物から洋服、制服に変わっていったこの時代に児島は制服の一大産地になったのです。
昭和2年にはスクールユニ初代社長河合忠栄がスクールユニの前身でもある
「タカラフジ」学生服の製造販売会社として大栄商店を創業。
いわゆる詰襟学生服を製造していました。
昭和37年、布帛トレパンの生産も開始し、学校体育衣料に進出。
その後、合成繊維が増え始め、ポリエステルなどの普及、
東京オリンピックの影響などもあり、ニット系体操服が登場します。
動きやすいニット生地の体操服は全国に広まり、布帛の体操服は今ではほとんどなくなりました。

